コラム

ホーム > コラム

第15回

放射線はリスクリテラシー教育における最適な教材

京都大学 環境安全保健機構 放射性同位元素総合センター
助教
角山 雄一

 1980年代の終わりにドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、彼の著書の中で近現代の社会は「リスク社会(Risk Society)」であると説いた1)。私たちの住む世界には様々なリスク因子が存在する。いわゆるゼロリスクなるものは現実の世界には存在し得ない。それどころか、科学が発達すればするほどブーメランのように新たなリスクをさらに生み出すという構造的な宿命さえ我々の社会は負っている。ならば、次世代を担う子供たちや若者たちは、現存するさまざまリスクを知り、これらに向き合い、そしてリスクに対処する術を幼いうちから学んでおくべきだと考える。これまで筆者は、研究の傍ら小中学校や高校、大学などで放射線入門知識を普及するための活動に取り組んできたが、その源泉には子供たちが将来「自分の力でこのリスク社会を泳ぎきれるような市民になって欲しい」といった切なる祈りのようなものがあったように思う。さまざまなリスクとうまく付き合う方法を大人になるまでに身に着けて欲しいと願うばかりである。

 科学技術に関するリスクリテラシー教育については、英国の教材「Twenty First Century Science: GCSE Physics」が大いに参考となる。日本の中学3年生から高校1年生に相当するナショナル・カリキュラムKSG4の学年を対象とした教材で、放射線の物理化学知識について広く学べると同時に、上級者向けでは低線量被ばくについても考察するようなユニットも用意されているという2)。我が国も見習うべきではないだろうか。

 ところで、児童や生徒たちがリスクと向き合う方法を学ぶという目的において、放射線ほど適した教材はない。理由は4つある。一つ目は、五感でとらえることができないリスクであるということ。このようなリスクは放射線以外にもたくさん存在する。例えば、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)もこれに該当するだろう。放射線学習を通じて、温度も色も匂いもないものへの処し方を学べるのではないか。二つ目は、定量定性的に数値化できること。目には見えないものであっても数量データに置き換えてしまえば、対象を客観視できるようになる。世界共通言語ともいえる数字を用いた表現や説明の手法も学べる。そして、データに基づいて話すということが、立場の異なる者と共存するための重要なツールとなることも知るだろう。三つ目は、しきい値を設定し難いリスクに対処する術を学べること。科学的知見が日々更新されていることや、他のリスク因子と比較して総合的にリスクを考えるといったことにも触れるだろう。そして最後に、エネルギー問題や復興に関する課題など、現在の我が国に抱える放射線にまつわる社会的課題について多角的な視点で考察できること。例えば、置かれた立場により二律背反となる問題についてディベートを行えば、他者の意見を自分事として考えることの訓練にもなるだろう。これについては筆者も高校生を対象とした取り組みを実施したことがある3)。たった3回のディベートであったがその学習効果は大変に大きいものだった。

 安全工学の分野には「リスクアセスメント」という言葉がある。リスクアセスメントとは、リスクを特定・分析した上で、そのリスクが受容可能かどうかを評価する行程のことで、リスクをマネジメントしなければならない場面における意思決定の重要な根拠となる。一つの方法論として、リスクアセスメントのトレーニングを幼い頃から行っておくということが考えられる。放射線でこの行程を考えると、リスクの特定・分析は即ち線量率測定や放射能分析のこととなる。放射線測定の重要性については今さら言うまでもないが、たとえば理科学習が始まっている小学校中学年の児童には、自然の放射線量率くらいは体験として測定し、私たちが常識として平熱の体温を知っているように、平時の線量率を当たり前のように知っておくことはとても大切なことだと考える4)。そして、放射線量の数値化を学んだ後に、じっくりとリスク評価について学ぶ。ただし、現在の教材や副読本では評価のために必要となる知識のうち、「人体影響」については不足しているように思われ、そのせいか、小中高で放射線の人体影響についてとりあげる学校は現在ほとんどみられない。これは提案となるが、高校で生物学の基礎を一通り履修した後に、いわゆる放射線取扱者に求められる知識の入口ぐらいのことを学ぶ機会を設けてはどうだろうか。例えば、DNAや細胞レベルでの損傷と修復のしくみ、線質による影響の違い、変異と放射線影響との関係、確定的影響と確率的影響の違いなどについては、放射線以外のリスク因子による影響にも応用ができるので知っておいて損はない。英国のように、習熟度の高い生徒たち向けに線量率効果や低線量被ばくに関する最新知見について学ぶ機会があるとさらに良い。あるいは、現在政策として推進されている学校におけるがん教育と連携するのも良いと考える。

 もちろんこのような「リスクアセスメント教育」を実現するには、克服すべき様々な課題がある。放射線測定ひとつとっても、測定器にかかるコストの問題を克服しなければならない。また、人体影響まで学ぶとなると、学校で教える側の人材補強も不可欠となる。長期の計画と予算の確保、そして綿密な準備が必要であるが、それでも、原爆投下と原発事故、これらふたつの悲惨な体験を持つ私たち日本国民だからこそ実現すべき学習方法があるのではないだろうか。  

1) Ulrich Beck、「Risk Society: Towards a New Modernity」SAGE Publications Ltd(1992)、邦訳版「危険社会: 新しい近代への道」法政大学出版局
2) 笠潤平「原子力と理科教育 次世代の科学的リテラシーのために」岩波ブックレットNo.886、岩波書店(2013)
3) 角山雄一、「BER2018「大阪春の陣」高校生たちに未来を見た」、日本原子力学会誌ATOMOΣ、60 巻 8 号、p.442-443 (2018)
4) 角山雄一、「被ばく体験国だからこそ、世界に誇れる放射線学習プログラムを」SYNODOS、https://synodos.jp/fukushima_report/21611 (2018.05)

Copyright © 2013 公益財団法人日本科学技術振興財団