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第4回

がんリスクの引き算

帝京大学医療技術学部診療放射線学科
教授
鈴木崇彦

 東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故から10年の月日が流れた。日頃、放射線教育や放射線施設の管理に携わっている関係から、事故後、放射線についての講演依頼を受け、福島県内を中心に日本各地で放射線に関する話をさせていただいた。ほとんどは放射線の基礎と人体影響についての話である。
 放射線の健康に対する影響や放射線によるがんリスクについて話すときには、放射線の影響だけを他の影響から切り離して話すことがほとんどである。特に、放射線による発がんについての「しきい値の無い直線仮説(LNT仮説)」は、放射線発がんのみを考えたものであり、放射線防護に適用すべき考え方である。しかし、これを聞いた一般の方は、どんなに小さな線量の被ばくでも個人の発がんリスクが上がる、と理解してしまう。平時には、無用の被ばくを避ける観点から、LNT仮説の考え方は理解されやすかった。しかし、福島での事故以来、LNT仮説は独り歩きを始め、仮説ではなく定説と化してしまった感がある。この状況では、100mSv以下の被ばく線量では、発がんの原因が放射線被ばくかどうかを科学的に明らかにするのは困難である、ということを話しても、線量は意味を持たなくなってしまい、逆に不安を助長する結果をもたらしてしまった。
 発がんは放射線によってのみ引き起こされるのではない。野菜の摂取不足や運動不足、高塩分食品の摂取などの生活習慣にも発がんにつながるリスクがあり、それらの発がんリスクの大きさは100mSv以上の放射線被ばくに相当するという比較がある。また、ストレスが発がんリスクを助長するという論文が報告されている。それによれば、自身の感じるストレスの強さと発がん率について10万人余りを5年間観察した結果、強いストレスが有ると感じている人の集団の発がん率は、ストレスがほとんどないと申告した人の集団の発がん率よりも高い、という結果が得られている。人のストレス行動としては、過食や、飲酒、喫煙量の増加などがあり、これらはすべて発がんリスクとして知られている。ストレスによる発がんリスクの増加は、割合はともかくとしてリスクの足し算として考え得ることを意味している。逆に、野菜摂取不足による発がんリスクが野菜の摂取によって解消されるのであれば、野菜の摂取が発がんリスクを引き下げることになる。つまり、発がんリスクに引き算として作用すると考えることもできる。発がんリスクに足し算、引き算が可能であるならば、放射線による発がんリスクにも何か引き算として適用できる要素はないであろうか。悪いとされる生活習慣による発がんリスクは、リスクとなる原因を改めれば低下するというのはわかりやすい。しかし、残念ながら、放射線被ばくについては、被ばく線量を後から減らすことはできない。発がんは、原因が違っても遺伝子の変異に起因する病気で、発がんまでの過程には複数の要因が関係することや、放射線被ばくにおいてはゲノム不安定性といわれる遺伝子の変異を促進する細胞内環境が重要な役割を演じているということなどを考えれば、遺伝子の変化により細胞ががん細胞に変化する過程の制御は重要である。放射線によって遺伝子が変異を起こしても、細胞内の微小な環境を整え、過度な酸化状態の改善や微小な炎症反応を抑制することによって細胞のがん化への進行を遅らせることができるかもしれない。どのようなことが放射線による発がんリスクを低下できるのかが明らかになれば、放射線被ばくによる不安の解消に必ず役立つはずである。
 そもそも個人個人の持つ発がんリスクの大きさには初めから大きな違いがある。そのため、低線量放射線の発がんリスクについての考え方を知ることと、低線量放射線が個人の発がんリスクを上げるかどうかを同じ俎上に載せて議論することに違和感を覚える。生活習慣の整った人は、そうでない人よりも同じ被ばく線量でも発がんリスクは小さく、被ばく後であれば、生活習慣を整えることが被ばく線量のリスクの大きさを気に病むことよりもはるかに重要なことではないだろうか。低線量被ばくでは、発がんの原因が放射線かどうか科学的に明らかにできないなかでは、自然発がん全体に目を向けて低がんリスク生活を勧めることが一般の方々への放射線教育に必要なことなのではないかと思う。
 リスクの大きさの感じ方は人によって異なる。特に、非自発的なリスクや、悪い影響の及ぶ範囲が広い、一度に多くの被害者が出る、リスクの負担が不公平であるなどの場合、リスクとなる原因を受けた人は、科学的な客観的リスクの大きさよりもはるかに大きなリスクを感じるとされている。その方々に、科学的にリスクは小さいと言っても理解されることは難しい。不安とは未来に対するものである以上、どう考えて先に進むか、ということが求められており、放射線の被ばく影響に対する不安であれば、生活・環境をどう整えていくか、という知恵につながる放射線の知識が必要なのではないだろうか。
 最近、さまざまながんについて、ごく少量の生体サンプルから個人がどのようながんに罹患しやすいかという発がんリスクを解析できるようになったというニュースを耳にした。これまでにも遺伝子検査の結果、乳がんの発症リスクが高いとわかったアメリカの女優が乳房を切除してしまったことは多くの人が知っている。あるがんの発症リスクが高いと知らされたら、その人はきっとそのがんリスクを下げるにはどうしたら良いかと考えるはずである。放射線は、その人が罹患しやすいがんの発生を促進するとも言われており、個人のがんリスクが明らかにできる時代は、放射線発がんリスクを低減できる時代になると考えるのは私だけがみる夢なのだろうか。

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