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第39回

なぜ、放射線の人体影響を正しく理解してもらうことは難しいのか

国立がん研究センター東病院
臨床開発センター機能診断開発分野
藤井 博史 氏

 私は放射線を使って病気を診断することを生業とする放射線科医であるが、福島第一原子力発電所事故後、勤務先がある柏市を含む千葉県東葛地区が周辺地域よりも放射線量が高い、いわゆるhot spotとなったため、東葛地区放射線量対策協議会の活動に関わることになった。この協議会では、放射線の人体影響に関する知識を活かして、放射線の健康に対する影響について不安を訴える地域の住民、特に年少の子供を持つ保護者の方々へ対応することを求められた。

 線量測定を専門とする委員と自治体の方々が東葛地区の学校や公園等の子供が集う公共施設の放射線量を測定したところ、幸いなことに、雨樋の下等の特殊な場所以外で1μSv/hrを超える空間線量が観測された場所はほとんどなかった。このため、これまでの放射線被曝が人体に与える影響に関する知見から、今後、東葛地区で子供にがん患者が多発するといった異常事態が起こる危険性は皆無に等しいと考えられた。

 この状況を、年少の子供を持つ保護者の方に理解してもらうため、自治体の方々の尽力で、保育園での説明会や保健センターでの健康相談の場を設けていただいた。

 保護者の方々へは、以下の様な内容を順序だてて説明したつもりである。
1) 今回の原子力発電所事故で、放射線被曝が増加する原因は、原子力発電所から飛散した137/134Csと131Iから放出される放射線であるが、こうした放射性核種から放出される放射線に人体が晒されるのは初めてのことではない。
2) 今回の事故に関連して東葛地区の住民が体外から浴びる放射線量では、広島や長崎の原爆被曝者の調査結果などから考えて、将来の発がんを有意に増加させるには至らない。
3) 放射性核種を摂取して体内から放射線に浴びたとしても、発がんを有意に増加させることは考えにくい。134/137Csは体内でカリウムと同様の動態を示すが、そのカリウム1g中には134/137Csよりも強いβ線を放出する(人体への影響が大きい)40Kが30Bq程度含まれている。人体にはカリウムは体重の0.2%程度含まれているとされているので、体重20kgの小児でも体内に40Kを1kBq以上有していることになるが、小児の体内から検出されている134/137Csはこれに比べるとはるかに少ない。また、131Iは医療でも用いられている放射性核種で、この核種を服用した小児の患者さんの追跡調査でも甲状腺癌の増加は確認されていない。
4) 人に関しては、これまで放射線被曝による遺伝的影響が明確に示された事例はない。

 しかし、保護者の方々に説明する内容を納得していただくのは容易ではなかったというのが正直な感想である。説明会や健康相談の場では、こうした説明を、少人数を対象に、あるいは一対一で行ったので、説明をする側と説明を受ける側との意思の疎通は良好であったと考えているし、実際に、アンケート調査等で“質問しづらい”といった苦情は少なかった。このため、どうして、こういった説明を受け容れて、安心してもらえないのかと悩んだが、この問題の答えにつながるヒントを心理学の書に見いだした。

 放射線被曝による発癌リスクは確率的影響と考えられており、この考え方に基づけば、いくら低線量の放射線被曝であっても発癌リスクは完全にゼロにはならない。心理学の教えるところによれば、人は、十分な知識を有していない事象についてはゼロ・リスクでない限り安全だと認識して安心できないのである。我が国では、これまで学校教育で十分な放射線教育が施されてきたとは言えないであろう。特に、放射線被曝が人体に及ぼす影響については、難解で誤解を生じやすいことから、学校での教育が積極的に行われてこなかった印象を持っている。したがって、我々の説明に対して保護者の方々の理解が得られにくいのは、この心理学の教えからすれば致し方無いことなのである。

 福島原子力発電所事故以来、各地で学校での放射線に関する教育を見直す動きが出ているが、こうした点も考慮して、放射線の人体への影響についての教育に関しても十分に検討していただけないかと思っている。

 生物は太古より自然界から絶えず少量の放射線被曝を受け、それにより自身のDNAが破壊され続けてきた。進化の過程で、これに対応すべく障害を受けたDNAを非常に高い精度で修復する能力を獲得してきているのである。これは人類にも受け継がれている。この事実を学校教育の現場でしっかり教育するカリキュラムを構築して欲しいと願っている。そうすれば、今回のような放射線問題が生じても、大きな混乱を回避できるようになるのではなかろうか。もちろん、我々、放射線科医も、診療や研究などを通じて習得した放射線の人体影響に関する知識を社会に還元して、一般の方々の放射線に関するアレルギーを除去することに努めなければならない。

 今回の原子力発電所事故では、放射線に対する理解不足がゆえに、根拠のない流説に戦き、少なからぬ人々が十分な準備もなく避難行動を起こしてしまった。放射線被曝で死亡した人は皆無ではあったが、3,000人を超える方々が避難に伴う肉体的および精神的ストレスで体調を崩し、不幸な結末を迎えてしまったことについて、放射線に関わる仕事をしているものとして、大いに反省しなければならない。

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